銘木の地、木曽
「木曽ヒノキ」に代表される銘木の地、木曽。
山々は荒廃することなく、今も豊富な資源を有しています。
銘木の地、木曽
明治の文豪、島崎藤村が「夜明け前」で記した通り、木曽路は奥深い山々に囲まれた、自然豊かな地域です。古くから林業が盛んで、「木曽ヒノキ」に代表される銘木は住宅のみならず、全国の社寺建造物にも利用されてきました。
木曽ヒノキが世に知れわたるようになったのは伊勢神宮の遷宮用材に選ばれた14世紀中頃と言われています。その後、豊臣秀吉が本格的な築城の資材として木曽ヒノキに注目し、聚楽第や伏見城などの造営に使われました。秀吉は自らの安定のため、木曽谷を直轄領としたほどです。
江戸に入っても産地の名声は劣ることなく、尾張藩の直轄地として伐採が盛んに行われ、江戸城築城や駿府城、名古屋城の造営など、森林資源の略奪的とも言える乱伐が強行されました。
こういった乱伐は森林資源の枯渇化を招き、危惧を募らせた幕府は「木一本に首一つ」とまで言われた停止木(ちょうじぼく)制を設け、木曽ヒノキやサワラ、コウヤマキなど「木曽五木」と呼ばれる有用樹種の保護育成を図ったのです。
現在私たちが使っている木材は、当時皆伐された山々で天然更新した木材が保護政策によって守られ、現在に至っているものだと言えます。
植林という考え方のなかった時代。他の地域(畿内など)は乱伐により山が荒廃し、運材に不便な木曽谷が注目されたのは良材があったからだとは思いますが、木曽谷の山々は荒廃することなく現在も豊富な資源を有しています。
徳川幕府が行った保護政策のおかげですが、裏返せば保護するに値する良材が存在していたという事なのだと思います。
創業者の栗山喜三郎も三重県の尾鷲からサワラを求めて、木曽川を北上し、この地に辿り着きました。いつの時代も木曽の木材は「ブランド木」だったのかもしれませんね。
木曽谷の山々は荒廃することなく、今も豊富な資源を有しています。